男の子スイッチ

男の子は、

大きなものが好き。
高いところが好き。
危険が好き。


それゆえ少年は、
高いビルにときめき、
橋げたから川に飛び降り、
火に油を注ぎます。



男の身体の中には、男の子スイッチなるものが仕込まれており、これがオンになる瞬間があります。

しかし大人になると、経験値を積んだ分だけ、スイッチをオンにしたときの“見返り”が怖くなります。

「怪我したらどうしよう」
「明日仕事だしなあ…」


しかし真の大人とは、男の子スイッチをオンにして、恐怖に打ち勝つ人のことをいいます。


さあ、皆で大人になる練習をしましょう。

スケートボード万里の長城を越えたDanny Way先生のレクチャーによるメガランプへのチャレンジ。生徒役はRyan Sheckler君。
メガランプとは、スケートボードを楽しむ大人のための巨大施設です。


真の大人とは、例えこけたとしても、被害を最小限に抑えられる人のことを指します。
皆さんも上手なこけかたをマスターして、真の大人を目指しましょう。

坂の上の雲

新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)

新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)

自分探し


若かりし頃、誰しもがぶつかる問題ではなかろうか。

「自分は何者なのか」
「本当の自分はどこにいるのか」

右へ、左へ、誰もいない夜へ、見知らぬ街へ、叶うなら、ずっとずっと遠くへ。
そこに行けば本当の自分が見つかるんじゃないか。そんな思いで過ごす日々。


しかし、そこに行ったところで、巡り合うのは「腹減った」、「眠い」、「疲れた」と、今まで通りのだらしない自分。どこに行ったところで一緒じゃないか。自分なんて見つけたところで、それほど美しいものなのか。


人は言う。

「普通の人生でいいじゃないか」

でも、自分は納得がいかなかった。

「普通」って何だ、何が「普通」なんだ?


自分探しなんかやめて、普通に生きていけばいいのか?

一体「普通」って何だ?


そんな悩みを抱えた僕は、再び司馬遼太郎の書籍を手に取った。司馬遼太郎は、日本人とは何かを延々と問い続けた作家である。明治維新前夜を描いた「竜馬がゆく」の続編のつもりで僕はこの小説を読み進めた。今の日本人を作り上げたヒントが、明治時代にある気がしたからだ。この時代は、皆が「普通」だと思っていた江戸時代が終わり、まったく新しい時代が幕を開けた大きな変革期にあたる。


坂の上の雲」は明治時代、特に日露戦争に焦点をあてた内容が書かれている。

かつての藩に仕えた二本差しのサムライ達は消え、全国各地の若者は、学校という場所でその才能を見い出され、教育という名のもとで科学技術を学び、そんな有名無名の彼らが軍隊という新しい組織で自らの能力を発揮する時代へと変遷している。そんな彼らがこの日露戦争の主人公である。


この作品は「竜馬がゆく」に比べるとつまらなく感じた。明治以前においては、登場人物が組織の枠を越え、組織そのものを壊して再構築しようとするエネルギーに満ちあふれていたのに対し、「坂の上の雲」では、登場人物の動きが国家という組織の中での一つの駒とならざるを得なくなっている。明治は新しい組織の出来始めの時期である。そこでは、未だ経験したことのない新しい組織の中で必死に自らの本分、職務を果たすことがこの時代の正義であったともいえるかもしれない。
いわば「竜馬がゆく」は企業が創業に至るまでのお話で、「坂の上の雲」は新しく生まれたベンチャー企業の成長過程を描いていると言えるだろう。


竜馬がゆく」、そして「坂の上の雲」を読んで僕が得たもの、それは今の普通の日本人を形作っている輪郭が見えてきたことである。

サムライ達はなぜ刀を捨てて民主主義を選択したのか。
明治を経て、なぜ太平洋戦争で日本の軍部は大いなる思い上がりをしたのか。

そんなことの一つ一つの由来が、司馬作品の登場人物を通して僕は学ぶことができた。

今の日本人は、江戸時代から何を受け継ぎ、何を無くしてきたのか。また、明治の軍人は、昭和の軍人にどのような影響を与え、そして一体何が昭和の軍人を高慢にさせたのか。江戸、明治、大正、昭和と、日本人はどのように変わってきたのか、そしてまた、変わらなかったのか。


この年になって、司馬作品を読み、日本人の歴史の流れが見えてくることで、ようやく自らの立ち位置が掴めるようになってきました。

内面から自分探しをするよりも、外側から今の自分に至る日本人の筋道を辿ってゆくことで、今の自分の立ち位置が見え、また、日本人としての輪郭が外側からはっきりと見えるようになってきました。自身の本当の内面は未だわかっていないかもしれませんが、今自分が立っている立ち位置がわかることは、自分に大きな安定感をもたらしました。



「普通でいい」
「平凡な毎日でいい」

よく耳にする言葉です。

しかし、我々は江戸時代を生きることはできないし、また、これから百年後の世界を生きることもできません。江戸、明治、昭和を経た、今ここというタイミングで、この日本の地を生きることができるのは我々しかいません。でもそのユニークさに気がつくには、歴史という知識と、目には見えないものを観る想像力を必要とします。江戸時代の社会生活が我々にとって「普通」でないように、今、この地点の自分の社会生活もいつか「普通」でなくなる時が来ます。

「普通」なんて言葉は僕にとっては糞くらえです。


蛇口をひねれば暖かい水が出て、悪いことをしても鞭打ちの刑になんかはされず、好きな場所に住めて、自分の希望する仕事に就くことができる、そんな「普通」の生活を作り上げてくれているルーツを辿ることは、決して無駄な作業ではありません。


自分が誰かはわかりませんが、
自分が今立っている、立ち位置は明確にすることができます。


自分の内側から自分を探るのではなく、自分の外側から、自身を形作っているルーツを明確にしていく作業を僕は司馬作品を通して経験しました。もし自分の内面の泥沼にはまり込み、今日も幸せの青い鳥を求めて彷徨っている青年がいれば、是非とも司馬小説を読むことをお勧めします。


司馬小説の世界に今を生きる我々は描かれていませんが、いずれ私達も歴史に埋もれていくユニークな人間の一人となります。
無理に髪の毛を金色に染めなくとも、我々は十分にユニークであることを知ることができれば、これ幸いです。

タイでTシャツを買う

上司との会話から一こま

上司「タイ行って何してるの?」

島袋「ゴーゴーバーに行ってますね」

上司「ゴーゴーバーは夜だから昼間は何してるの?」

島袋「寝てるか、Tシャツ買いに行ってますね。他はあまり何もしていないですね」

上司「えぇ!Tシャツ買うだけ!?観光とかしないの」

島袋「向こうは暑いですから」

禅問答、のれんに腕押しのように聞こえるこのやりとり、このままでは私、島袋哲也が単なるスケベか、呆けたおっさんと思われてしまいます。本来のクリーンなイメージを伝えるため、この場をお借りしてタイTシャツの魅力を皆様にお伝えしたいと思います。

まずはこちら、有名なタイの日本語Tシャツです。

元ネタの記事はこちらをご参照ください。秀逸なレビューが書かれています。

最近はアキバ系のTシャツでも、「がんばれ俺!」や「働け!」といった日本語が書かれたTシャツがじわじわ広がってきていますが、タイも負けていません。

私も今回の旅行で、白無地で正面に「適当」と書かれたTシャツを見つけました。まだまだネタは尽きなさそうです。


このまま色もの路線で攻めるのもありですが、以降は、デザイン的にも皆さんの感性に訴えかけるおしゃれTシャツを挙げたいと思います。これらのTシャツから、タイ人のデザインセンスを理解して頂ければ本望です。

ゲーマー垂涎のパックマンの敵キャラをフィーチャリング。

最近はF1のチームでも有名なRed Bull
Red Bullドリンク自体はタイで生まれ、ある企業家がそれに目をつけ、今はオーストリア資本の会社がグローバルブランドとして生産、販売を行っています。おみやげとしても買われるタイの定番Tシャツで、ここ10年間根強い人気のTシャツです。

女子受けを狙ったかわいい系のTシャツ。さっそくガールズバーに着て行き、「や〜んかわいいー」と言われ、自分が褒められたわけではないのにデレデレしてきました。

最後にロックなTシャツを一枚。中指の立て具合がたまりません。

Viva Thailand!

Beautiful Japan!


Fuji from Yoshiwara (Tokaido)。東海道、吉原から望む富士山



Gion-Machi, Street, at Kioto。京都、祇園町の通り



View of Kobe。神戸の眺め

これらは、New York Public Libraryに所蔵されている1900年前後の日本の風景写真です。これらの公共写真をflickrという写真共有サイト上で見ることができます。アメリカの公施設に所蔵されている写真ですので、日本に関する写真はほとんどありませんが、その中で見つけたのが以下の写真です(japanやkyotoといったキーワードで検索してみて下さい)。

この写真を見た瞬間、僕が今まで見てきた葛飾北斎広重らの浮世絵に描かれた日本の風景と重なり、「おぉ、美しき日本!」とただただ感嘆してしまいました。

撮影した時は、単なる異国の一風景にすぎないものですが、百年の時を経た今に伝わってくる価値はやはりかけがえのないものです。

撮影された写真は個人の所有物ですが、そこに映された風景は、後世の我々全員にとって貴重な財産であると思いました。写真家個人の手を離れて、この財産を守り、活かしてゆくのは我々の責任でしょう。我々ができることについてflickrはこのように書いています。

The key goals of The Commons on Flickr are to firstly show you hidden treasures in the world's public photography archives, and secondly to show how your input and knowledge can help make these collections even richer.

The Commons on Flickrの主要な目的は、まず第一に、世界の公的な写真記録の中にある隠れた財産をあなた方にお見せすることです。
第二に、あなた方の知識の提供によって、これらの写真集をこれまで以上により価値のあるものにする、その方法を示すことです。


You're invited to help describe the photographs you discover in The Commons on Flickr, either by adding tags or leaving comments.

あなた方の助力によって、ここであなたが発見した写真に対して、説明書きを書いて頂ければ幸いです。もしくは、タグ付け、コメントを残すことでも構いません。


インターネットを通して、我々一人一人の助力と知識がこれらの写真に情報と深みを与え、それらが織りなす集合知、共有知が我々の財産をより豊かにしていく。その一手段をflickrは提供しているわけです。



スティーブ・ジョブズの言葉で、こういう言葉があります。
「ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ」


この写真を撮った写真家の思惑や人柄を今や誰も知るよしはなく、後に残るものは本当に大事なものだけ。美しい構図と、美しい風景。


そう、後に残るものは本当に大事なものだけ。

「路上」

「路上」




Mark Gonzales "Non fiction street part"

ジャック・ケルアック「路上」という小説がある。

世界でもっとも繁栄した国、アメリカ。そのアメリカで、生まれながらにしてパンと平和を手に入れてしまい、やることが無くなってしまった青年の放浪記だ。

そこに書かれているのは、1950年代を生きる若者の物語。いつも金がなく、周りに乞食のように金をせびり、取りつかれたかのように絶えずアクセル全開で車を運転する。特に目的もなくアメリカ中を走り回り、金があれば酒を飲むだけの自堕落な生活。

自由奔放なようでいて、どこか抜け場のない感覚。これがこの小説の全編を貫く内容のように思う。

この小説が発表された当時は青春小説として若者に絶賛されたそうだが、読後感は最悪だ。いつも何かしらの倦怠感を抱え、始終曇り空に囲まれていた自分の大学生活を思い出した。一見自由でありながら、何も自由を見い出せていなかった。

路上の先は希望ではなく、灰色がかった空だった。



その路上を、スケートボードに乗ってMark Gonzalesは限界ぎりぎりで疾走する。

アメリカの新しい世代の誕生を映した一シーンだと思う。



前半1分あたりの映像で、Mark Gonzalesが自動車に引っ張ってもらいながら、ストリートを疾走する映像がある。
そこにあるのは、路上を疾走するスリルと興奮。そしてMark Gonzalesならではのしなやかな身体の動き。その優雅な身体の運動が、スケートボードを通して都会の路上の上を流れてゆく。


都会は、人間の脳の外部化と云われる。つまり都会は隅から隅まで人工で作られた世界である。誰かが頭に描いた設計図によって街が形作られている。この世界では、自然法則よりも、脳味噌の中の秩序が優先される。

そう、Mark Gonzalesは管理された都会の中で身体を取り戻したのだ。

サーファーが波の流れに身を委ね、鳥が気流に身を重ねるように、彼は自動車、人、アスファルトが入り混じる都会の雑踏の中を華麗に流れてゆく。