国民意識

自動車免許の更新に行ってきました。

免許の更新手続きは運転免許センターという場所で、朝の8時30分から9時30分の間受け付けています。昼の部もあり。
免許の更新手続きは、多くの人は出来ればなしに済ませたい徒労だと感じているが、もしかしてこの経験は結構意義深いものなんじゃないかと最近思うようになった。

考えてみてほしい、我々の生活のあらゆる場面は各自の自由意思によって成り立っている。コンビニに行く人、行かない人、ファーストフードを食べる人、食べない人、映画を映画館で観る人、観ない人。あらゆる場所は、各自の嗜好、自由意思が合致する人だけが集まり、あらゆる層の人間が均一に集まることはほとんどない。しかしこの場所運転免許センターには、免許更新手続きのために若者から高齢者まで無作為に抽出された大人達が集まっている。きっと引きこもりもいるだろうし、大企業の役員もいるだろう。普段ならほとんど交わらないであろう、あらゆる社会階層の人間が半強制的に一か所に集合させられる非常に稀有な場所である。

そういえば、おちゃらけ社会派ブログで有名なちきりんはブログの中で、あらゆる社会階層の人間が集まる公立学校の方が、一定の社会階層出身者に偏りやすい私立学校より、社会経験を積むうえで大切なのではないかと自らの体験を振り返って語っていた。余談。
"雪の日、中学校時代" http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20080203


ある場所に、ある目的を持って、無条件に、無作為に人間が集められる。それは、ある公平性に基づいた規則によって、全国民に平等に適用される。公的な学校教育がこれにあたるし、今の日本にはなくなったが、徴兵制もしかり。
「あっ、これって民主主義だったんだ」
ある時、そう気がついた。


金持ちであろうが、貧乏人であろうが、はたまたヤクザであろうが、大企業の社長であろうが、各自の属性に関係なく、更新された免許が欲しければ国家の指定する場所に、時間通りに集まり、指定の手続きを踏まなければならない。これに従わなければ免許は発行されず、無免許運転等々で後々面倒な目に合うことになる。

背後に国家権力による罰則が待ち構えているからというわけではないが、免許の更新手続きのために運転免許センターに集う大人達は一様に、皆、飼い馴らされた犬のように大人しい。係の人間が右に行けと言えば、右に行き、左に行けと言えば、素直に左に行く。日頃は店員にいつまで待たせるんだとごねるおっさんもここでは神妙な沈黙だし、普段は顎で人を使う圧迫上司もここでは腰が低い。髪の毛を茶髪に染めたイケイケのお兄ちゃんも存在を隠すように静かに列に並んでいる。

そう、皆、国家様が発行してくれる免許証のためには、多少のわがままを抑えることができる人達なんだ。
僕はある言葉を思い出した。


「法の下(もと)の平等」


すべて国民は、法の下(もと)に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
そう、日本国憲法の第14条が規定する光景が今、僕の目の前にあるのだ。憲法の内容を頭では知っていても、この条文に合致する光景にお目にかかることはあまりない。

この中にいる僕は、一人の国民である。国民という言葉が少し重すぎるなら、もっとゆるやかで日常的な市民意識と言い換えてもいい。奈良という土地に生まれて、奈良のどこそこに住んでいる一人の独身男性、34歳。という意識。



アメリカでは野球の試合前に国歌斉唱が行われ、全員が起立、脱帽し、敬意を表明する。その敬意がアメリカ国家に対するものなのか、アメリカ市民に対するものなのかはわからないが、実に上手い仕掛けだと思う。我々日本人も、サッカーの国際試合でなされる試合前の国歌斉唱などはかなりすんなりと受け入れられている。これと同じことを学校教育の場でやろうとすると話がこじれてくる。どうしても国家というものが前面に出すぎてしまうせいか。

脱線。

話を戻す。思うに、憲法14条が保障する『国民』という概念をいつ人々は自覚するようになるのだろうか。
日本の近代史をひも解くと、明治維新後に起きた日本最後の内戦と呼ばれる西南戦争がその契機であったとある。この戦争においては、徴兵制によって集められた農民、町民、商人から成る国民軍が、戦国時代以来連綿と続く武士階級と対峙することになった。結果、国民軍が勝利し、日本人は自らの手でサムライ達を葬り去ることになった。
このとき、日本人はどのような光景を見たのだろうか。明治政府が設けた四民平等に基づく、新しい国のかたちの手ごたえを感じたのではなかろうかと僕は思っている。大名やサムライのいない世界の構築に自らも加担したわけだから。


近代以来、一部の特権者だけが無条件に優遇されるような世界を我々は無くそうと努めてきた。この闘いはこれからも続くであろう。その先に待っている四民平等の世界は決してバラ色の未来ではなく、先の運転免許センターに集う大人達のごとく実に淡々とした世界かもしれない。
しかし、金のあるなし、地位、権力、名誉のあるなしにかかわらず、ただ黙々と行列の中で自分の順番を待つ。そんな世界も悪くないと思う今日この頃。夏の夜、蝉のしぐれを聴きながら。


夏草や、つはものどもが夢のあと
松尾芭蕉

飛翔 ( They push the human race forward. )

クレージーな人たちがいる。反逆者、厄介者と呼ばれる人たち。
四角い穴に丸い杭を打ちこむように、物事をまるで違う目で見る人たち。
彼らは規則を嫌う。彼らは現状を肯定しない。


一瞬にこめられた永遠の時間。

アクセルを振り絞った後の、一直線。

ここからつながる次の世界へ。

彼らの言葉に心をうたれる人がいる。反対する人も 賞賛する人も けなす人もいる。
しかし 彼らを無視することは誰もできない。なぜなら、彼らは物事を変えたからだ。

彼らは人間を前進させた。

彼らはクレージーと言われるが 私たちは天才だと思う。
自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが本当に世界を変えているのだから。

Apple Computer

風船よ、天まで上がれ!

風船に画質の良いHDカメラを取り付けて、文字通り天まで飛ばした映像です。

風船に乗れば色んな所に行けるかもと思わず夢見心地になりました。しかし高度が上がり、揺れが激しくなると風船酔いが…

しかし、少年の頃に抱いていた、風船はどこまで高く昇ってゆくんだろうという夢想を思い出させてくれたとても綺麗な映像でした。

フルバージョン。

Balloon flight, shot with an HD HERO camera from GoPro. from Francois Brahic on Vimeo.

風船破裂の瞬間。あぁ、と思わずため息がもれる美しい瞬間。

Balloon pop - top camera from Francois Brahic on Vimeo.

孫正義とホリエモン

今日は孫正義と、ホリエモンこと堀江貴文との違いについて考えてみたいと思います。

片や通信事業会社SoftBankの社長。一方は言わずもがな、ライブドアの元社長。

どちらも、歴史に残る人物であり、IT業界の発展に多大なる影響を与えた人物です。二人とも、色々な毀誉褒貶で描かれる人物ですが、日本の既得権益者層と今なお戦いを挑み続けているという点では大いに評価されなければいけないと思います。


片や時価総額2兆円超の大手通信事業会社社長の孫正義と、IT業界の表舞台を去ったホリエモン
壮大なビジョン、大胆な行動力、類稀な変革意志。そのすべてを二人とも持ちながら、結果の果実はホリエモンにはもたらされませんでした。


両者の事の成否を分けた要因は一体何だったのでしょうか?
SoftBank会社説明会で起業の志について熱く語る孫正義※を見ながら、そんなことを考えました。




ここでひとつの事に気がつきました。

孫正義は、人前で涙を流すことができる人間で、ホリエモンは人前では涙を流さない人間なんじゃなかろうか。


涙を流さないのはホリエモンが冷たい人間だからではなくて、涙なんかで人心に訴えかけるのは「ダサイ」と考えているからだと思います。
ホリエモンは、言うなれば究極の合理主義者です。

だからこそ、彼は短期間であれほど大きな変革を生み出すことができたのだと思います。彼の合理的な発想に従えば、ある会社に勤めている有望な人材をヘッドハンティングするには、今彼が受け取っている給与の3倍の給料を提示すれば、その人材を引っこ抜くことができると考えます。合理的な人間であればそのような決断をするはずだと。

しかしながら、人間というものはおかしなもので、給与だけが会社を移る判断基準になるとは限りません。周りの同僚や上司などのしがらみがまず頭に浮かび、「単純に給与アップのために、会社を辞めて他の会社に移るのは、利己的な人間だと思われないか」、「今まで会社にそれなりに世話になってきた手前、義理を欠くのではないか」などと、義理人情、浪花節どっぷりの人間関係の網の目が彼の決断に縛りをかけます


ホリエモンの合理的な頭から見れば「バカだなー。早く辞めればいいのに」思うところでしょう。
しかし、合理主義にどっぷり染まりきれない人間は、人によっては涙を流しながら「お世話になりました」と声を詰まらせて会社を去ったりするわけです。


会社を、同じ志を有する者同士の集まりと考えるか、合理的な判断のできる、ビジネスの継続・発展に必要な人間の集まりと考えるか。

これが二人の差を決定づけた要因ではないでしょうか。


孫正義SoftBank社員との間には、合理的な判断を越えた情緒的なつながりが一瞬垣間見えますが、ホリエモンライブドア社員の間には、そのような“非合理な”信頼関係がなかった。もしくは構築できなかったのではないでしょうか。ホリエモン風に語れば「そんなもん不要じゃねぇ?」といった感覚。

むしろ、そういった浪花節的な関係がなかったからこそホリエモンを支持した人間も大勢いたわけで、私自身も彼の短所とは考えたくはありません。彼の目指すビジョンに賛同する人間もたくさんいました。




しかし、時代の流れの中で、事業の進め方に方々から誹謗中傷はあるにせよ、最終的に大きな支持を得た孫正義と、同じく一定の支持を得ながらも、一部の既得権益層から大きな反発を受けて追い出されることになってしまったホリエモン

同じ変革者であり、事業家としても優れている二人。
どうしてこんなにも違う結果になってしまうのか。


孫正義は、Yahoo BBでADSLブロードバンドの普及事業を進める際、既得権益者のNTTがADSLのための通信回線を独占していることに憤り、通信事業の監督官庁である総務省に出向き、担当者の机をバンバン叩きながら、必死に「フェアにしてくれ」と訴えたそうです。

この時の彼の表情を見て、「事業の拡大を望む貪欲な経営者」と思うのか、それとも「瞳の奥にむき出しの熱意を持つ、フェアな競争を望む熱い経営者」と感じるのか。

孫正義は「フェアな競争を望む熱い経営者」として受け取られ、ホリエモンは「相手のことを省みない貪欲な経営者」と受け取られた、もしくはそのように誤解された。




ホリエモンは熱い男であり、フェアな競争を望む事業家だと私は思います。しかしそんな彼には、涙ながらに熱くなって何かを訴えるということができなかった。

そのような姿は彼が望むキャラクターではないし、今後も彼はそんなことはしないでしょう。しかし、今後、彼が再び強い事業意欲にかられた時、今よりももっと熱く何かを訴えかけることができれば、再び多くの人の支持が得られると思います。いえ、これは私自身がそう深く願っていることかもしれません。


※「SoftBank会社説明会 全141分」孫正義SoftBankの志について語る。
USTREAM
http://www.ustream.tv/recorded/5863485

ツイッター総研で孫正義のスピーチ内容を文章で読む
http://kokumaijp.blog70.fc2.com/blog-entry-40.html

music→musics

僕のお気に入りの歌「Umbrella」。曲調はJay-ZフィーチャリングのHipHopテイストの曲ですが、結構色々なミュージシャンにこの曲がカバーされていて、その編曲のされ方が実に多様でおもしろい。

アレンジしやすい楽曲なのか、きちんと原曲を止めながらもそれぞれの方向に発展しているのが、インターネットを通した新しい音楽の発展が感じられて興味深く思います。

インターネットによって世界は均一化するのではなく、単なる楽曲のフルコピー(物真似)を越えて、それぞれの土地や嗜好に根ざしてローカリゼーション(地域化)がしっかりと進んでいくのではないでしょうか。そんな期待を抱きました。

* 原曲(広告付き)Rihanna - Umbrella ft. Jay-Z


* ロックバージョン。十二分にロックのビートとマッチしています。
Vanilla Sky - Umbrella (Rihanna Cover)


* アコーティスティックバージョン。切ない感情を歌い上げるにはやはり
アコースティックギターが胸に響きます。
Rihanna - Umbrella (Boyce Avenue acoustic cover) on iTunes


* ピースな雰囲気のBamboo(竹でできた楽器)バージョン。聴いていて和みます。
Rihanna "Umbrella" - Angklung/Bamboo Version


* スペイン風の叙情的な倦怠歌唱バージョン。ギターソロが大人向け。
Rihanna - Umbrella (acoustic)


* とりあえずおっさんが気に入った。
Coffey - Umbrella (Christ Mix) - on iTunes today