坂の上の雲

新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)

新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)

自分探し


若かりし頃、誰しもがぶつかる問題ではなかろうか。

「自分は何者なのか」
「本当の自分はどこにいるのか」

右へ、左へ、誰もいない夜へ、見知らぬ街へ、叶うなら、ずっとずっと遠くへ。
そこに行けば本当の自分が見つかるんじゃないか。そんな思いで過ごす日々。


しかし、そこに行ったところで、巡り合うのは「腹減った」、「眠い」、「疲れた」と、今まで通りのだらしない自分。どこに行ったところで一緒じゃないか。自分なんて見つけたところで、それほど美しいものなのか。


人は言う。

「普通の人生でいいじゃないか」

でも、自分は納得がいかなかった。

「普通」って何だ、何が「普通」なんだ?


自分探しなんかやめて、普通に生きていけばいいのか?

一体「普通」って何だ?


そんな悩みを抱えた僕は、再び司馬遼太郎の書籍を手に取った。司馬遼太郎は、日本人とは何かを延々と問い続けた作家である。明治維新前夜を描いた「竜馬がゆく」の続編のつもりで僕はこの小説を読み進めた。今の日本人を作り上げたヒントが、明治時代にある気がしたからだ。この時代は、皆が「普通」だと思っていた江戸時代が終わり、まったく新しい時代が幕を開けた大きな変革期にあたる。


坂の上の雲」は明治時代、特に日露戦争に焦点をあてた内容が書かれている。

かつての藩に仕えた二本差しのサムライ達は消え、全国各地の若者は、学校という場所でその才能を見い出され、教育という名のもとで科学技術を学び、そんな有名無名の彼らが軍隊という新しい組織で自らの能力を発揮する時代へと変遷している。そんな彼らがこの日露戦争の主人公である。


この作品は「竜馬がゆく」に比べるとつまらなく感じた。明治以前においては、登場人物が組織の枠を越え、組織そのものを壊して再構築しようとするエネルギーに満ちあふれていたのに対し、「坂の上の雲」では、登場人物の動きが国家という組織の中での一つの駒とならざるを得なくなっている。明治は新しい組織の出来始めの時期である。そこでは、未だ経験したことのない新しい組織の中で必死に自らの本分、職務を果たすことがこの時代の正義であったともいえるかもしれない。
いわば「竜馬がゆく」は企業が創業に至るまでのお話で、「坂の上の雲」は新しく生まれたベンチャー企業の成長過程を描いていると言えるだろう。


竜馬がゆく」、そして「坂の上の雲」を読んで僕が得たもの、それは今の普通の日本人を形作っている輪郭が見えてきたことである。

サムライ達はなぜ刀を捨てて民主主義を選択したのか。
明治を経て、なぜ太平洋戦争で日本の軍部は大いなる思い上がりをしたのか。

そんなことの一つ一つの由来が、司馬作品の登場人物を通して僕は学ぶことができた。

今の日本人は、江戸時代から何を受け継ぎ、何を無くしてきたのか。また、明治の軍人は、昭和の軍人にどのような影響を与え、そして一体何が昭和の軍人を高慢にさせたのか。江戸、明治、大正、昭和と、日本人はどのように変わってきたのか、そしてまた、変わらなかったのか。


この年になって、司馬作品を読み、日本人の歴史の流れが見えてくることで、ようやく自らの立ち位置が掴めるようになってきました。

内面から自分探しをするよりも、外側から今の自分に至る日本人の筋道を辿ってゆくことで、今の自分の立ち位置が見え、また、日本人としての輪郭が外側からはっきりと見えるようになってきました。自身の本当の内面は未だわかっていないかもしれませんが、今自分が立っている立ち位置がわかることは、自分に大きな安定感をもたらしました。



「普通でいい」
「平凡な毎日でいい」

よく耳にする言葉です。

しかし、我々は江戸時代を生きることはできないし、また、これから百年後の世界を生きることもできません。江戸、明治、昭和を経た、今ここというタイミングで、この日本の地を生きることができるのは我々しかいません。でもそのユニークさに気がつくには、歴史という知識と、目には見えないものを観る想像力を必要とします。江戸時代の社会生活が我々にとって「普通」でないように、今、この地点の自分の社会生活もいつか「普通」でなくなる時が来ます。

「普通」なんて言葉は僕にとっては糞くらえです。


蛇口をひねれば暖かい水が出て、悪いことをしても鞭打ちの刑になんかはされず、好きな場所に住めて、自分の希望する仕事に就くことができる、そんな「普通」の生活を作り上げてくれているルーツを辿ることは、決して無駄な作業ではありません。


自分が誰かはわかりませんが、
自分が今立っている、立ち位置は明確にすることができます。


自分の内側から自分を探るのではなく、自分の外側から、自身を形作っているルーツを明確にしていく作業を僕は司馬作品を通して経験しました。もし自分の内面の泥沼にはまり込み、今日も幸せの青い鳥を求めて彷徨っている青年がいれば、是非とも司馬小説を読むことをお勧めします。


司馬小説の世界に今を生きる我々は描かれていませんが、いずれ私達も歴史に埋もれていくユニークな人間の一人となります。
無理に髪の毛を金色に染めなくとも、我々は十分にユニークであることを知ることができれば、これ幸いです。