「路上」

「路上」




Mark Gonzales "Non fiction street part"

ジャック・ケルアック「路上」という小説がある。

世界でもっとも繁栄した国、アメリカ。そのアメリカで、生まれながらにしてパンと平和を手に入れてしまい、やることが無くなってしまった青年の放浪記だ。

そこに書かれているのは、1950年代を生きる若者の物語。いつも金がなく、周りに乞食のように金をせびり、取りつかれたかのように絶えずアクセル全開で車を運転する。特に目的もなくアメリカ中を走り回り、金があれば酒を飲むだけの自堕落な生活。

自由奔放なようでいて、どこか抜け場のない感覚。これがこの小説の全編を貫く内容のように思う。

この小説が発表された当時は青春小説として若者に絶賛されたそうだが、読後感は最悪だ。いつも何かしらの倦怠感を抱え、始終曇り空に囲まれていた自分の大学生活を思い出した。一見自由でありながら、何も自由を見い出せていなかった。

路上の先は希望ではなく、灰色がかった空だった。



その路上を、スケートボードに乗ってMark Gonzalesは限界ぎりぎりで疾走する。

アメリカの新しい世代の誕生を映した一シーンだと思う。



前半1分あたりの映像で、Mark Gonzalesが自動車に引っ張ってもらいながら、ストリートを疾走する映像がある。
そこにあるのは、路上を疾走するスリルと興奮。そしてMark Gonzalesならではのしなやかな身体の動き。その優雅な身体の運動が、スケートボードを通して都会の路上の上を流れてゆく。


都会は、人間の脳の外部化と云われる。つまり都会は隅から隅まで人工で作られた世界である。誰かが頭に描いた設計図によって街が形作られている。この世界では、自然法則よりも、脳味噌の中の秩序が優先される。

そう、Mark Gonzalesは管理された都会の中で身体を取り戻したのだ。

サーファーが波の流れに身を委ね、鳥が気流に身を重ねるように、彼は自動車、人、アスファルトが入り混じる都会の雑踏の中を華麗に流れてゆく。