任侠とは男の優先順位

任侠
古臭い言葉。日常口にすることはなく、昭和の東映映画の匂いがするような言葉。


任侠とは、わかりやすく言えば「強気を挫き、弱きを助く」または「弱い者を助ける、守る」という道徳律に則って生きることです。ウルトラマンやスーパーマンなどのヒーローが空想の世界でのそれに当てはまるでしょう。


では、実世界ではどうでしょうか。任侠を表看板に掲げているのはヤクザが有名ですが、任侠という言葉はヤクザの専門用語ではありません。例えば、飛行機が海の上に不時着した場合、真っ先に優先的に助け出されるのは女、子供というのが世界的な通例となっています。どの国の憲法や法律にも「女、子供を先に助けよ」とわざわざ明記されていません。この順序は、いわば暗黙の良識といえるでしょう。


では、男にも優先順位があるのでしょうか。

飛行機の機長は、緊急事態が発生して機外に脱出しなければいけない時、乗客の脱出が全員完了したかどうかを操縦室から最後尾にかけてすべて確認した後、自分は一番最後に、機体の一番最高尾の脱出口から脱出することを義務付けられています。これは、飛行機と乗客の安全を預かる最高責任者の機長に求められる義務として明文化されています。

これで一番最後尾の人間は機長と決まりました。では、その他の残りの男達の順位はどうなるでしょうか。
ここで宮崎学の言葉を取り上げます。

「任侠ってなんですか?」
そんなことを聞く若者さえ出てくる近頃の浮かれた世の中である。
聞かれたら、万年はこう教えてやる。
−簡単なことだ。損を平気でできるのが任侠で、できないのが普通の男だ。
平気で損ができるなら、八百屋の親父でも、タクシーの運転手でも任侠だし、
できなければ、そんな野郎は、たとえ組長でも任侠じゃない。

宮崎学「万年東一」より−


男は、生まれながらに競争を義務付けられ、学業や業績で常に一番、もしくは上位を目指すことを求められます。一位であらずんば人にあらずの世界が男の生きる道でもあります。

ところが、この競争原理と似て非なるものがこの「任侠」と呼ばれる世界の道徳律。この世界で一番を目指そうと思えば、一番べべにならなければならないのです。一番を手にして得をすることではなく、あえて最後尾を選び、大損をこく(必ずしも大損するわけではないが、限りなくその可能性が高い選択をする)ことが称賛される世界です。


9.11の貿易センターテロ事件では、多くの消防士達が、自分の命が助かることを一番最後にまわしました。当然そこには「ヒーロー」になることを目指すアメリカ的なモチベーションがあると思いますが、自らの命の優先順位を下げる気概を全員が持っていたはずです。



振り返るに、今の日本。自分の振舞いの優先順位を常に一番に置く人間が増えています。言うまでもなく、競争原理の中での一番を目指す行為ではなく、他人は何する人ぞと、自らの生理的欲求をそのまま優先順位の一番に置く人達です。


電車の床に座り込む人
電車の中で化粧をする人
注意をすると、私は誰にも迷惑をかけていないと、伝家の宝刀を切り出す人


基本的人権治外法権が入り乱れたような言い訳に、私は小学生の頃の屁理屈を思い出します。自らの優先順位を正当化するために、彼らは「誰にも迷惑をかけていない」という外交官特権のようなワイルドカードを切ってきます。メドゥーサのように相手を石化させるこの言葉。私も何度かこの言葉で身動きがとれなくなりました。この手の輩とさんざん議論してきましたが、彼らの本音は「他人に迷惑をかけていない」ではなく、「他人(あなた)と私は関係ない。あれこれ言われる筋合いがない、ほっといてくれ」だと思います。


まあいいんじゃないと見て見ぬふりをする人、自分と関係ない、かかわり合いたくないと蓋を閉じる人。この人達も自分の優先順位が一番で、自分の身の回りの瑣事に心を乱されたくないと願っている人達です。



気がつけば、全員が全員、自分の優先順位が一番。振舞い方は各自違えど、根は皆一緒ではないでしょうか。オレオレ、ワタシワタシが闊歩する今の日本、皆さんの優先順位は一体何番でしょうか。