noblesse oblige

"noblesse oblige"、日本語に訳すと、「高貴なる義務」。高貴な者ほど、より高い義務が求められるという意味。

僕の好きな言葉だ。

この言葉のルーツは、ヨーロッパの貴族の規範で、「より多くの能力や資産を与えられた者は、より多く社会的責任と義務を持つ」という意味。


世の中にはリスクを取れる人と取れない人がいる。

生まれながらにして、金持ちの家に生まれる奴もいれば、片や、生まれながらにして家は貧乏、両親は病気、勉強どころじゃない環境に生まれる奴もいる。

誰しもがリスクを負える訳じゃない。守るべきもの、支払うべき責務を、本人の能力、資質とは関係なく背負わされることもある。

そのような中で、金に困らなくて、両親も健康で、才能に満ち溢れている者、すなわち、高いリスクを引き受けることができる人間は、一歩前に出て、その能力を広く社会に晒すべきだ。僕は"noblesse oblige"の教えをこのように受け取っている。


日本の歴史を振り返ってみても、明治維新が成功したのは、能力ある者が自らの命を賭けて矢面に立ってきたからだ。

高杉晋作坂本竜馬西郷隆盛、…
誰一人として、自らの身や地位を守ろうとはしなかった。

そもそも侍は、労働という義務から解放された人種。人はパンのみに生きるにあらず。日々のパンに困らぬ人間は、人間としてより高い課題を課せられなくてはならない。


話が少しずれるが、未だ日本が市民社会ではないのは、明治維新が言わば、特権身分である侍主体で成し遂げられたからともいえる。それゆえか、我々は文句を言うことは得意だが、自らで問題を解決することが不得手である。

我々は、困難な状況を“お上”に丸投げしてしまうことが多い。上からの命令には忠実だが、自らリスクを取ることに関しては消極的だ。




才能にあふれ、会社を首になっても生きていけるタフな人間は、何をか人生において守ることがあるだろうか。

アメリカでは、優秀な人間ほど、大企業に就職するのではなく、独立して自分でリスクを取って生きてゆく生き方を選択するという。

ビル・ゲイツも、スティーブ・ジョブズも、セルゲイ・ブリンラリー・ペイジも、
かつては世に名を知られぬ、一人の高貴な若者でした。


月日が流れ、結果、世にその名は轟かぬとも、高貴な若者の一人であることを私も目指したいと思います。