Figure Skater 2

Tumblr風のユーザーがコンテンツを投稿するサイト9GAGで見つけたゲームのパッケージです。

中央のキム・ヨナの表情にしびれます。
登場人物すべてがまさに氷上の魔術師。


元ネタの画像はこちら
http://www.sankakucomplex.com/2010/02/27/figure-skater-ii-enjoys-newfound-popularity/

食えないやつ

今日、冷蔵庫の奥で去年の夏から万年床のごとく六ヶ月間居候し続けていた葡萄を食べました。

見た目は、表面にうっすら白いカビが生えているほかは饐えた臭いもなく、思いの他いけそう。一粒を房から取り、皮をはいで、口の中へ。

口の中に広がる発酵による濃厚な甘み、そして熟成期間の短いワインのような仄かな香り。

「以外に美味しい!」


思えば、ワインも葡萄をそのまま放置し発酵させた飲み物。冷蔵庫のように一定した気温に置かれていたおかげで、良い方向に発酵が進んだようです。ブランデーも元はと言えば、腐ったワインから生まれたと云われています。
ブランデーの歴史


思い起こせば、冷蔵に三ヶ月間放置されていたヨーグルトを食べてみたら、思ったほど酸っぱくなく、食後の下痢もなかったこともありました。納豆は腐らないので長期間の保存が可能と、私の尊敬する発酵学が専門の小泉武夫先生もおっしゃっています。
発酵と人類の知恵
『発酵食品』の話


そもそも、微生物による食品の変化のうち、人間にとっても良いものを「発酵」と呼び、害のあるものを「腐敗」と呼んでいるだけの話。その変化は、大きく環境に依存するものでもあります。


さてさて、毎度の世相批判ですが、今の世の中、重宝されるのは、即座に仕事ができ、すぐに価値を生み出すことができる、即戦力と呼ばれる「食える人達」です。発酵に時間がかかり、発酵のための適切な環境を必要とする「食えない人達」は、今は価値がないとしてお払い箱とされてしまいます。

「人を育てる余裕のない世の中」
「人の成長が待てない世の中」
そんな世の中が味わい深くないのは当然のことでしょう。


フランス人はワインを女性に例えて、「ワインはそのままほっておくと酢になるが、丁寧に取り扱うことで、時を経て味わい深い美酒となる」と含蓄のあることを言っています。

願わくば、腐ったワインが良きブランデーに生まれ変わるような、変化を許容し、その訪れをじっくりと待つような、変化への可能性に賭ける時代であって欲しいものです。

おもしろきこともなき世をおもしろく

タイトルの俳句はかの高杉晋作の辞世の句ですが、巷には、歴史にその名前を残さない名言があります。俳句でいうところの“読みひとしらず”となっている言葉たち。

そんな名言の中から、私の好きなフレーズを数点取り上げたいと思います。

物事の表現には間接表現と直接表現があります。知性ある人達は間接表現を好みます。知性ある人達はそうあって欲しいと私は願っています。

「バカ」だとか「アホ」だとかを連呼するだけでは、人はカラスと大差ありません。過去の名言から、人類が育んできた知性の一端を学んでいきましょう。

「てめーこの野郎!」と大声を上げて喧嘩をする前に、「マジオレ、ホンキ、ヒップホッパ。ワルソナヤツハ、ダイタイトモダチ」とラップを口ずさみながら、戦いに挑みましょう。頭に完全に血が上った人間に勝利の女神がほほ笑むことはありません。


啖呵その一

「けつの穴から手突っ込んで、奥歯ガタガタいわしたろか」

一発目から男子限定の硬派な喧嘩用語から始まりましたが、かなり知能レベルの高い人でなければこのような科白は吐けません。

一見乱暴に相手を傷つけるかと思いきや、実は一切の殺傷の宣言がありません。あくまでも相手の奥歯をガタガタいわすだけに止めています。しかもよくよく分析してみると、恐怖で奥歯が震えているかと思いきや、実は相手によって直接奥歯をガタガタいわされているという恐怖。二重の恐怖が彼を襲います。戦わずして相手の戦意を挫く、強烈な締め付け語感のある言葉です。


啖呵その二

「ど頭かちわって、脳味噌にストロー差し込んでちゅーちゅー吸うたろか」

先ほどに比べ、頭をかち割るという暴力的な行為が最初に宣言されていますが、後半のストローでの吸い込み光景を想像すると、残酷な中にも動物的なかわいらしさがあり、前半の血が飛び散る光景を中和させる作用があります。いやー言葉っておもしろいですね。


歌詞その一

「あなたがその気で 云うのなら(ヨイヨイ)
思い切ります 別れます
もとの娘の 十八に
返してくれたら 別れます(サノヨイヨイ) 」

炭坑節
YouTube

このような粋な殺し文句をおなごから言われたら、男子たるもの男を見せなければいけません。誰にとっても戻すことのできない時間の流れ。おなごは大事にしましょう。


言葉その一

「人間の不幸をつかさどる神々は、ときおりその遊びにも飽きて、慈悲をたれることがある」

チャールズ・チャップリン

番外編として、匿名の作品ではなくチャップリンの言葉を挙げさせて頂きました。この言葉の受け取り方は様々ですが、上手くゆかない大人の世の中、「終わりよければすべてよし」に近い、運命の成り行きがもたらすふとした巡り合わせを示唆する言葉です。


参考資料「岸和田少年愚連隊
http://www.amazon.co.jp/%E5%B2%B8%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%B0%91%E5%B9%B4%E6%84%9A%E9%80%A3%E9%9A%8A-DVD-%E4%BA%95%E7%AD%92%E5%92%8C%E5%B9%B8/dp/B00005HNHO

任侠とは男の優先順位

任侠
古臭い言葉。日常口にすることはなく、昭和の東映映画の匂いがするような言葉。


任侠とは、わかりやすく言えば「強気を挫き、弱きを助く」または「弱い者を助ける、守る」という道徳律に則って生きることです。ウルトラマンやスーパーマンなどのヒーローが空想の世界でのそれに当てはまるでしょう。


では、実世界ではどうでしょうか。任侠を表看板に掲げているのはヤクザが有名ですが、任侠という言葉はヤクザの専門用語ではありません。例えば、飛行機が海の上に不時着した場合、真っ先に優先的に助け出されるのは女、子供というのが世界的な通例となっています。どの国の憲法や法律にも「女、子供を先に助けよ」とわざわざ明記されていません。この順序は、いわば暗黙の良識といえるでしょう。


では、男にも優先順位があるのでしょうか。

飛行機の機長は、緊急事態が発生して機外に脱出しなければいけない時、乗客の脱出が全員完了したかどうかを操縦室から最後尾にかけてすべて確認した後、自分は一番最後に、機体の一番最高尾の脱出口から脱出することを義務付けられています。これは、飛行機と乗客の安全を預かる最高責任者の機長に求められる義務として明文化されています。

これで一番最後尾の人間は機長と決まりました。では、その他の残りの男達の順位はどうなるでしょうか。
ここで宮崎学の言葉を取り上げます。

「任侠ってなんですか?」
そんなことを聞く若者さえ出てくる近頃の浮かれた世の中である。
聞かれたら、万年はこう教えてやる。
−簡単なことだ。損を平気でできるのが任侠で、できないのが普通の男だ。
平気で損ができるなら、八百屋の親父でも、タクシーの運転手でも任侠だし、
できなければ、そんな野郎は、たとえ組長でも任侠じゃない。

宮崎学「万年東一」より−


男は、生まれながらに競争を義務付けられ、学業や業績で常に一番、もしくは上位を目指すことを求められます。一位であらずんば人にあらずの世界が男の生きる道でもあります。

ところが、この競争原理と似て非なるものがこの「任侠」と呼ばれる世界の道徳律。この世界で一番を目指そうと思えば、一番べべにならなければならないのです。一番を手にして得をすることではなく、あえて最後尾を選び、大損をこく(必ずしも大損するわけではないが、限りなくその可能性が高い選択をする)ことが称賛される世界です。


9.11の貿易センターテロ事件では、多くの消防士達が、自分の命が助かることを一番最後にまわしました。当然そこには「ヒーロー」になることを目指すアメリカ的なモチベーションがあると思いますが、自らの命の優先順位を下げる気概を全員が持っていたはずです。



振り返るに、今の日本。自分の振舞いの優先順位を常に一番に置く人間が増えています。言うまでもなく、競争原理の中での一番を目指す行為ではなく、他人は何する人ぞと、自らの生理的欲求をそのまま優先順位の一番に置く人達です。


電車の床に座り込む人
電車の中で化粧をする人
注意をすると、私は誰にも迷惑をかけていないと、伝家の宝刀を切り出す人


基本的人権治外法権が入り乱れたような言い訳に、私は小学生の頃の屁理屈を思い出します。自らの優先順位を正当化するために、彼らは「誰にも迷惑をかけていない」という外交官特権のようなワイルドカードを切ってきます。メドゥーサのように相手を石化させるこの言葉。私も何度かこの言葉で身動きがとれなくなりました。この手の輩とさんざん議論してきましたが、彼らの本音は「他人に迷惑をかけていない」ではなく、「他人(あなた)と私は関係ない。あれこれ言われる筋合いがない、ほっといてくれ」だと思います。


まあいいんじゃないと見て見ぬふりをする人、自分と関係ない、かかわり合いたくないと蓋を閉じる人。この人達も自分の優先順位が一番で、自分の身の回りの瑣事に心を乱されたくないと願っている人達です。



気がつけば、全員が全員、自分の優先順位が一番。振舞い方は各自違えど、根は皆一緒ではないでしょうか。オレオレ、ワタシワタシが闊歩する今の日本、皆さんの優先順位は一体何番でしょうか。

Que sera sera

タイの生命保険のコマーシャルから

"Que sera sera"とは「なるようになるさ」という意味。

一種の諦観でもあり、受容でもあり、自身や周りへの寛容にも受け取れます。


元々の語源は、ラテン気質な「明日は明日で何とかなるさ」という楽天的な
フレーズのはずですが、仏教国のタイでは、流れる水に身を任せるような、
抗わずに受け入れる人生のように響きます。

When I was just a little girl
I asked my mother what will I be
Will I be pretty
Will I be rich
Here's what she said to me


Que sera sera
Whatever will be will be
The future's not ours to see
Que sera sera


When I was just a child in school
I asked my teacher what should I try
Should I paint pictures
Should I sing songs
This was her wise reply


Que sera sera
Whatever will be will be
The future's not ours to see
Que sera sera


When I grew up and fell in love
I asked my sweetheart what lies ahead
Will there be rainbows day after day
Here's what my sweetheart said

Que sera sera
Whatever will be will be
The future's not ours to see
Que sera sera


What will be, will be
Que sera sera...

noblesse oblige

"noblesse oblige"、日本語に訳すと、「高貴なる義務」。高貴な者ほど、より高い義務が求められるという意味。

僕の好きな言葉だ。

この言葉のルーツは、ヨーロッパの貴族の規範で、「より多くの能力や資産を与えられた者は、より多く社会的責任と義務を持つ」という意味。


世の中にはリスクを取れる人と取れない人がいる。

生まれながらにして、金持ちの家に生まれる奴もいれば、片や、生まれながらにして家は貧乏、両親は病気、勉強どころじゃない環境に生まれる奴もいる。

誰しもがリスクを負える訳じゃない。守るべきもの、支払うべき責務を、本人の能力、資質とは関係なく背負わされることもある。

そのような中で、金に困らなくて、両親も健康で、才能に満ち溢れている者、すなわち、高いリスクを引き受けることができる人間は、一歩前に出て、その能力を広く社会に晒すべきだ。僕は"noblesse oblige"の教えをこのように受け取っている。


日本の歴史を振り返ってみても、明治維新が成功したのは、能力ある者が自らの命を賭けて矢面に立ってきたからだ。

高杉晋作坂本竜馬西郷隆盛、…
誰一人として、自らの身や地位を守ろうとはしなかった。

そもそも侍は、労働という義務から解放された人種。人はパンのみに生きるにあらず。日々のパンに困らぬ人間は、人間としてより高い課題を課せられなくてはならない。


話が少しずれるが、未だ日本が市民社会ではないのは、明治維新が言わば、特権身分である侍主体で成し遂げられたからともいえる。それゆえか、我々は文句を言うことは得意だが、自らで問題を解決することが不得手である。

我々は、困難な状況を“お上”に丸投げしてしまうことが多い。上からの命令には忠実だが、自らリスクを取ることに関しては消極的だ。




才能にあふれ、会社を首になっても生きていけるタフな人間は、何をか人生において守ることがあるだろうか。

アメリカでは、優秀な人間ほど、大企業に就職するのではなく、独立して自分でリスクを取って生きてゆく生き方を選択するという。

ビル・ゲイツも、スティーブ・ジョブズも、セルゲイ・ブリンラリー・ペイジも、
かつては世に名を知られぬ、一人の高貴な若者でした。


月日が流れ、結果、世にその名は轟かぬとも、高貴な若者の一人であることを私も目指したいと思います。